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2022.07.14 :歴史雑談録(松田直樹)

​​史上最強の巨漢力士・雷電爲右エ門

日本史上において巨漢であった人物を紹介するこのシリーズ。武将だけでなく、強さを競う格闘界においてもやはり躯体の大きさは、時代を問わずものを言わせるステータスであったことでしょう。今回は、日本史上最強ともされる江戸時代後期の力士・雷電爲右エ門を紹介します。

雷電が活躍した頃の相撲

雷電爲右エ門は、主に寛政年間(1789?1801年)ごろに活躍した江戸相撲の力士です。

寛政期は、たそがれ少将こと老中・松平定信が寛政の改革にて緊縮政治を推し進め、尊号一件にて幕府と朝廷の関係が激化するなどした頃にあたります。伊能忠敬が日本全国の測量をはじめたりもしています。ちょうど幕末の尊王攘夷の兆しが見え始める頃ですね。

これまでの相撲興行は、天災や飢餓が重なり、一揆や打ちこわしが多発した世相であったため、寺社奉行管轄の元、勧進目的での興行が主だったものでした。要は、世直し祈願や仏閣修理のため人々に寄付を募る目的だったということ。これが庶民の興味を集め、娯楽目的でのイベントへと変化していきます。

雷電爲右衞門が活躍しはじめる頃には、師匠である谷風、そのライバルである小野川といった力士が人気を博し、11代将軍・徳川家斉の上覧試合が行われるなど身分問わず大いに盛り上がり、江戸相撲は黄金時代に。現代の格式ある大相撲の原型として定着していきました。

つまり雷電爲右衞門は、現代につながる相撲人気の立役者の一人であるということなのです。

ちなみに、幕末には相撲対ボクシングなどの異種格闘技戦が行われたり、また、幕府の外交官が「メリケンに舐められちゃいけない」という理由で力士を同行させたりしており、この頃には相撲が「強さの象徴」になっていたことも伺えます。

若く有望な巨体力士

前置きが長くなりましたね。すみません、雷電の話題に移りましょう。

雷電こと関太郎吉は、1767年、信濃国小県郡大石村生まれ。14歳ごろには六尺(180cm)を超えていたそうです。現代でも中学2年生がその身長だとかなり大きいですよね。その頃は精米店にて奉公しており、持ち前の巨体で力仕事をこなしていました。

巨体と怪力ぶりが評判になり、相撲好きのあまり自前で土俵も持ち少年相撲クラブも作ってしまうほどの地元の庄屋の目に留まり、そこの門弟として修行することになります。

庄屋と交友のあった浦風部屋から声がかかり、18歳の時に力士へと転向します。要はプロになる、ということです。浦風の仲介で伊勢ノ海部屋に入門します。後に事実上の初代横綱となる「谷風」の内弟子となりました。

この頃には体はさらに大きくなり、6尺5寸(約197㎝)、45貫(約169㎏)の巨体であったと伝えられています。

江戸時代後期における日本の男性平均身長はおよそ156cmほどのようで、飛鳥時代から戦国時代と比べても特段に低い値です。肉食忌避の傾向が強くなり、動物性タンパク質の不足が主な原因のようです。

現代の感覚だとお相撲さんの200cm前後の身長はそれほど珍しくなく感じますが、このご時世では崇めたくなるほどの大きさだったのではないでしょうか。自分よりも50cmほど高い身長を想像してみてください。

戦国時代の武将の高身長は口伝ベースの記録であったりするのでかなりあやふやではありますが、この雷電の場合は手形が多く残されていますのでかなり信憑生が高いものです。なんと、その手形は長さ23.3cm。いやー、でかい。(なお、身長180cmの筆者の掌の長さは19.5cmでした。)

驚くべきその戦績

目立つ体の上に、強い。そんな関太郎吉は松江藩の抱え力士となり、士分として仕えることになります。藩主である松平治郷は茶人として有名な殿様。不昧公です。この洒脱を好む殿様から、藩にゆかりの四股名「雷電」をもらいまして、いよいよ「雷電爲右衞門」が誕生します。

ちなみにこの不昧公、傾いていた藩財政を立て直し蓄財を成功させますが、そのようやく溜まったお金で1500両もする「油屋肩衝」はじめ多くの名茶器を買い漁って、また財政を悪化させてしまうようなちょっと面白い殿様です。

実質的なデビュー戦とも言える江戸相撲初土俵で8勝2預の優勝相当成績を挙げ、先述の将軍が観覧する上覧相撲にも出場。上覧相撲では公式戦初黒星をとるも、その後は快進撃。

雷電のあまりの人気に、京都相撲では雷電を一目見ようと駆けつけた大勢の見物客の集まりすぎ桟敷が落下し、多くの怪我人が出ることもあったほどです。

その後、28歳より16年半27場所の大関として在位します。
1811年に腰を痛めて二月場所を休場し、そのまま現役21年間を引退します。

生涯成績は「254勝10敗2分14預」、勝率「96.2%」という歴代最強の勝率です

優勝相当成績を通算で28回。

白鵬の45回に及んでいないわけですが、現在の年6場所制に対して、雷電の当時は江戸相撲本場所は年2場所しかありません。なので、単純計算ではありますが、現代の感覚であれば3倍してもいいくらいです。となると優勝回数84回相当。

これはやはり史上最強と言っていいのではないでしょうかね。

なぜ大関どまり?

引退後の雷電は松江藩の相撲頭取となり後進育成に励んだり、エキシビジョンとして土俵入りしたりして過ごしています。

不昧公の次代藩主である松平斉恒が相撲に積極的でなかったことから藩お抱え力士が多く解雇されることになるのですが、後進の移転先を丹念に交渉するなど、相当ないい人っぷり、高潔さが伺えます。目をかけた稲妻雷五郎は第7代横綱になるなど育成面でも有能でした。その後、1825年に59歳で死去。

と、ここで疑問が。

ここまで強くて有能な雷電が、なぜ大関どまりだったのか。
なぜ横綱になれなかったのか。

雷電自身が推薦を断った、師匠の谷風が横綱になって間も無くタイミングが悪かったなどの諸説がありますが、「横綱という正式な制度がなかった」というのが現実的かと思われます。

当時はまだ横綱という位が通常的なものではなく、形式的で名誉職的なものでありました。師匠の谷風は横綱免許を拝領していますが、これは将軍の上覧相撲が行われるにあたってのものであり、制度的に与えられたものではありません。

要は雷電の活躍時代では、横綱という制度が儀式的なものであり制度化される以前であったということです。

でも横綱扱い

しかしながら、富岡八幡宮境にある横綱力士碑には歴代の横綱に混ざって、「無類力士」として横綱でない力士ただ一人顕彰されています。

また、「古今十傑」という歴代力士の中でも特に強かった力士10名の中にも、雷電は横綱でない力士としてただ一人含まれています

このように正式な横綱ではありませんが、人々の心と伝承の中では「伝説の横綱」として存在している。

そんなところが、まさに真に最強の力士たる雷電爲右エ門ぽいなと思う次第でございます。

余談

YMOの代表曲の一つに「ライディーン(RYDEEN)」がありますが、これはこの雷電をもとに名付けられたものです

当初はそのまま「ライデン」としていましたが、当時海外でも流行していたアニメ「勇者ライディーン」も同じく雷電の名をもとにしており、ウケがいいだろうということで曲の方も同じく「ライディーン」となりました。

この記事を書いた人: 歴史雑談録(松田直樹)
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