世界中の大きなサイズの人を笑顔にする!
2022.04.12 :歴史雑談録(松田直樹)

身長が197cmでデキるヤツ?「マムシの息子」斎藤義龍のウソホント 歴史雑談録さんの巨漢武将雑談

世界中の大きなサイズの人を笑顔にする!がテーマのL-LiFEマガジン。今回から巨漢武将を歴史雑談録さんに紹介していただきます。初回は織田信長のライバルとしても有名な「マムシの息子」斎藤義龍です。

いつの世も人々の体の大きさは様々。歴史上の英雄・偉人にも、巨漢もいれば小柄な人ももちろんいます。とりわけ戦国武将ともなりますと、躯体の大きさは強さの象徴としてステータスであったのではないでしょうか。今回は、戦国時代でも特に巨躯だったと言われる斎藤義龍を紹介します。

マムシの息子・斎藤義龍

斎藤義龍は、かの「美濃のマムシ」と呼ばれた斎藤道三の長男。


生まれたのは道三が33歳の頃、まだ西村勘九郎と称して土岐頼芸(とき よりあきなど諸説あり)の守護職跡目争いに協力していた頃です。この西村勘九郎は道三本人ではなく、その父、松波庄五郎である可能性が高いのですが、要は義龍が生まれた頃はまだ守護代斎藤氏にはなっていなかった頃であるということです。


ちなみにこの道三のマムシというあだ名ですが、世に定着したのは坂口安吾や山岡荘八の小説からであって当時はそう呼ばれていなかったようです。なので、織田信長が道三の娘である濃姫に向かって「マムシの子はマムシか」と問うような昔の時代劇に見られる台詞はなかったのですね。


道三が守護代斎藤の名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗ったのが1538年、義龍が11歳の頃。この多感な時期に、西村、長井、斎藤と次々と名の変わる父を見て何かを感じたのでしょうか。


後に義龍は道三に「無能である」と疎んじられるようになり、親子は対立。義龍は長良川の戦いにて父を討ち取ることになります。

六尺五寸殿

1554年、道三より家督を継いで稲葉山城主となります。義龍27歳。この頃には身長が六尺五寸であったとされています(『美濃国諸家系譜』には「大力量天下無双、身の長高六尺八寸あり」との記述があります)。


一尺=10/33メートル(約30.3cm)と定められたのは明治時代になってからであって、江戸時代までは鯨尺、竹尺、又四郎尺など様々な寸方違いの尺が使われており、この六尺五寸がどれくらいか正確には分かりません。ただ、どの尺も約30.3cm前後でありますので、これを基に計算すると義龍の身長は約197cmであったことになります。なお前述の鯨尺は主に着物の採寸に使用された尺で、一尺は約37.9cm。これで計算すると240cmを超えてしまい、ちょっと現実的ではないですね。


197cmは現在でもかなりの高身長ですが、戦国時代と現在では成人男性の平均身長はかなり異なります。戦国時代の男性平均身長の推定値は158cmほどと言われており、義龍の197cmはその1.25倍。一方、現在は2018年の総務省調べによると20〜30代男性平均身長は約172cmですから、現代の感覚で義龍を見ると214cmの身長相当になる換算になります。その目立ち具合からそのまま「六尺五寸殿」と呼ばれたとか。そのまますぎ。


とまあ、かなりの大柄だったことがご理解いただけることでしょう。当時の家屋や屋敷は狭い箇所も多く日常生活にかなり苦労したのではないでしょうか。さらに「馬に乗って地面に両足がついた」とも噂されたそうです。これは流石に誇張で、確かに当時の日本の在来種はポニーサイズでサラブレッドよりもかなり小柄な種ですが、それでも体高120cmはありますから、この噂はちょっとありえないですね。


まあ、それほど当時の感覚では大きく堂々として見えた、ということは間違いないでしょう。

母・深芳野(みよしの)

義龍の背の高さは誰に似たのでしょうか。父の道三ではなく、母・深芳野に似たようです。


深芳野の身長は女性ながらに六尺二寸(約187cm)だったそうです。戦国時代の女性の平均身長は147cmほどのようなので、義龍の大きさよりもさらに目立っていたかもしれません。この深芳野は美濃一の美女であったとされ、元は守護であった土岐頼芸の愛妾で、のちに斎藤道三に下賜され側室となった女性。


このため義龍の実の父は土岐頼芸であるという説もあり、これが義龍の道三討ち取りの要因になったという見方の元になっています。この深芳野は稲葉一徹の姉で、一色義遠の娘が母(もしくは一色義清が父)とされており、これが縁で義龍は後年、家内統制のため一色氏を称することとなります。


一色氏は足利将軍家の一門であり、美濃源氏の土岐氏、守護代の斎藤氏よりも格上です。父を殺しての政権簒奪や土岐氏追放を正当化し、混乱する国人衆を納得させるために母の出自を利用したのですね。

色々と眉唾

とここまで義龍のことを紹介してきましたが、身長や土岐の落胤であることなど、どうも事実でない可能性が高いのです。


というのもこれらの記述があるのが『美濃国諸旧記』や『美濃国諸家系譜』といった江戸時代に編纂された史書であるため、義龍たちの生きた当時の一次資料と情報が合致しない箇所も多く信憑性に欠けてしまうのです。先述の深芳野の身長の記述も、義龍が道三の子でないことの強調として話を盛られたように思われます。


『信長公記』などでは、道三が隠居したことや義龍の身体的特徴について記載していないことから、残念ながらこのような義龍の情報は定かではない、ということになりそうですね。

義龍の実態

高身長であったことが事実でなかったとしても、この義龍、通説や道三の低評価によるように凡庸ではなく、実際はかなり有能な人物でした。むしろ父の道三の評価がこれまで過大だったこと、織田信長との対比で評価が滞っていた印象があります。


道三の当時の政策としては恐怖政治による専制で、国人衆の扱いにも消極的でした。急速に国取りを行ったため、国内の不満分子は残ったまま。織田氏との同盟も独断ですし、義龍に家督を譲ったのちも大御所政治を続け、義龍を廃嫡しようとしたりと独裁状態です。


さらに、道三は楽市などの先進的経済政策を行ったとされていますが、これもあくまで寺社領からの自生的なもので、他大名に比べても優れた領国内政を敷いていたわけでもないようです。

こういった背景から、不満を持つ家臣たちのバックアップを受けて義龍は政権簒奪に立ち上がったと見ていいでしょう。事実、義龍は父を討ち取った後に様々な政治改革を試みています。

これまでの独裁ではなく国人衆による合議制を取り入れ、また、荘園制を引きずる土地の多重支配体制を改め郷単位や郡単位での知行地再編成を行うなど、むしろ義龍の政策の方がかなり先進的なんです。義龍時代の美濃は安定しており、実際、織田信長が美濃を攻略できたのは義龍が死んで以降のことです。

後世での高身長やご落胤である記述は、このような有能なのに不遇であった斎藤義龍への手向かもしれませんね。

参考文献

  • 中世武士選書29 斎藤道三と義龍・龍興
  • 信長軍の合戦史(渡邊大門)
  • 戦国武将の兄弟姉妹たち(橋場 日月)
  • 楽市場と楽市令(勝侠鎮夫)
この記事を書いた人: 歴史雑談録(松田直樹)
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