いつの世も人々の体の大きさは様々。歴史上の英雄・偉人にも、巨漢もいれば小柄な人ももちろんいます。とりわけ戦国武将ともなりますと、躯体の大きさは強さの象徴としてステータスであったのではないでしょうか。今回はそんな巨躯を活かして立身出世したであろう、藤堂高虎をご紹介。
高虎は近江国犬上郡藤堂村(現在の彦根市のすぐ南)の土豪・藤堂家の次男として生まれます。後に32万石の大大名となる藤堂家ですが、この頃はほぼ農民暮らしの没落土豪。正規の武士ではなく、さまざまな武将のところへ陣借りするバイト的足軽として生計を立てていました。
高虎は幼少期より体が大きく、13歳の頃には6歳上の兄・高則の身長を抜いていたそうです。20代の頃には六尺三寸、つまり190cm以上になっていたと伝えられています。ちなみに上記の出生地、今は高虎公園という公園になっています。小さな公園なのですが高虎の立派な騎馬像が立っています。
兄が早世し、13,4歳という若さで家督を継ぐことになり、高虎が家を引っ張っていかなくてはなりません。
そんなおり地元の大名である浅井長政に正式に仕えることになりました。大柄の高虎ですから、陣借り足軽の家の子といえど、それは強そうに目立って十分なアピールになったのではないでしょうか。そして浅井・朝倉連合と織田・徳川連合が戦った姉川の戦いに初陣。この戦いでしっかり首級を上げる活躍を見せ、浅井長政直々に感状と脇差を下賜されているほど。体の大きさがハッタリではないことを証明できましたね。
仕事っぷりも評価され立身これから、という仕官からたった3年後、当の浅井家が織田信長によって滅ぼされ、高虎は17歳にして浪人の身となってしまいます。その後さまざまな主君に仕えますがどうにも長続きしません。仕官先の待遇が悪かったり、高虎自身が血気盛んだったり。
まずは織田に降伏した浅井の旧臣・阿閉貞征の元に身を寄せますが、同僚とのトラブルで浪人に。続いて同じく浅井の旧臣・磯野員昌の元では主人が出奔して浪人に。磯野の養子となっていた信長の甥・津田信澄にも仕えますが、当初のたった80石から一切の加増もないためまた浪人に。
この仕官先を求めての放浪時代、三河の吉田宿での無銭飲食のエピソードは特に有名です。これは後述しますね。
で、その後、磯野員昌の仲介で羽柴秀長(秀吉の弟)に仕えることとなりました。ここが高虎のターニングポイント。人間が変わることになります。ようやく自分に合った、かつ正当に評価してくれる仕官先を見つけられたわけです。
秀長の死後はその養子の羽柴秀保に仕えますが、その秀保も早世。高虎の才を惜しんだ秀吉に直参大名に取り上げられ、秀吉死後は徳川家康に仕えます。
浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、津田信澄、羽柴秀長、羽柴秀保、豊臣秀吉、徳川家康、と計8回も主君を変えていることになり、高虎といえばこの「主君替え」が後世の印象になってしまいました。
ちなみに父の藤堂虎高(名前がそっくりでややこしい)も甲斐武田や越後長尾に仕えたり、その後に近江に帰って東堂家に婿養子に入ったり、と結構ふらふらとしていたので、この仕官先を求めての放浪は父譲りかもしれませんね。
そんな感じで、高虎といえば主君をころころ変える変節漢なイメージで書かれることが多かったのですが、実は違うんです。過去に受けた恩義は決して忘れない、温情の人でした。
そんなエピソードをいくつか紹介します。
まず3番目に仕えた磯野員昌。
浅井四翼の一人とも謳われた有能武将で、織田への降伏後も近江高島一帯を与えられるなど厚遇されていました。ちなみに、信長を狙撃しようとした杉谷善住坊を捕縛した方です。高虎はそんな員昌に評価され、これに恩義を感じていたようです。員昌は信長と仲違いして出奔・帰農してしまうのですが、後に大名となった高虎は磯野への恩義を忘れず、員昌の子である磯野行信を召し抱えています。
また、最大の恩人であるのが羽柴秀長。
この秀長の元では大変に可愛がられ、四書五経などの儒教をはじめ、穴太衆との交流、安土城や和歌山城の普請を任されたりと、さまざまなことを教えられています。高虎といえば、和歌山城、宇和島城をはじめ今治城・津城・伊賀上野城・二条城などの築城名人として有名ですが、これまで槍働き一辺倒だった武辺者がこのように内政スキルを身に付けられたのは秀長のおかげなのです。四国攻めの軍功なども抜群で、最終的には家老にまで昇進。
この秀長が病死すると、その後を継いだ豊臣秀保にも誠心誠意仕えますが、この秀保が文禄の役の後に急死。そして断絶。この大恩ある大和豊臣家を守れなかった自責の念から、出家して高野山に篭ってしまうほど。仕官時の300石から最終的には2万石の大名格にまで昇進させてくれたのはこの大和豊臣家ですから、無常を感じて全てを捨てる覚悟だったのでしょう。
なお、秀長の菩提を弔う大光院を京の大徳寺に改築し、江戸期通して藤堂家が代々援助を続けたほど。火災で焼失した際にはこれも藤堂家によって再建されています。
秀吉に呼び戻された後は宇和島・大洲にて8万石の正式な大名となります。秀吉死後は徳川家康と懇意になるのですが、その縁は聚楽第内の家康の屋敷の作事奉行を担当しことに始まります。屋敷の作事を秀長から任された高虎は、独自に警備を向上させる設計をするなど家康を感嘆させ、長光の刀を賜るほど信頼されるようになりました。
家康もこのような高虎の恩義に報いる誠実な人柄をよくわかっていたのでしょう。外様大名ながらも譜代大名格として厚遇されていますし、家康臨終の際には特別に枕元に侍ることを許されているほど。名誉ある先陣の役も賜っていますし別格の信頼です。
主君を裏切るということではなく、その時々の主君に対してそれぞれの忠義を尽くしていることがわかりますね。
恩義に報いる逸話で言えば最も有名なのが出世餅の逸話でしょう。
先述のように若かりし放浪時代の高虎は仕官先を求めて各地を歩き回っており、日々食うにも困るほどでした。東国方面へ向かっている際、三河の吉田宿(現在の愛知県豊橋市)へ差しかかったときのことです。街道沿いに餅屋を見つけ、空腹のあまり金もないのに注文して食べてしまいます。要は無銭飲食。高虎は浪人している事情を店の主人に正直に話した上で謝罪します。
主人は怒るどころかこれを許し、さらに銭まで持たせて、「故郷の近江に戻って親孝行しなさい」と助言してくれます。
礼を言って近江に戻った高虎は、その後主君を変えつつも大名にまで登りつめます。
30年ほどのち江戸時代になり参勤途中に吉田宿に差し掛かると、高虎はこの餅屋を訪れあらためて礼を尽くした、というお話です。
少々でき過ぎているので実際は後世の創作かとは思うのですが、高虎の人柄をよく表しているエピソードですね。
ただ、津藩上席家老であった中川蔵人の日記に
「藩祖高山公、ゆかりの三河吉田宿中西与左衛門方にて餅を食ふ習し也」
と記されており、吉田宿で餅を食うことを藤堂家代々がそれを吉例として受け継いだ風習であったことは事実のことのようです。
高虎の旗指物は白丸が3つ並んだ「三つ丸餅」。
「城持ち(白餅)」になれるようにとの縁起担ぎのようですが、これもあってなんとも信じたくなる逸話ですよね。
そんな主君への恩義を忘れない高虎ですが、元来の苦労人であったことからも己の家臣にも優しい面があります。
高虎は家中に対して『遺訓ニ百ヶ条』という訓示を残しているのですが、この内容が厳しいルールというわけでなく、どうにも「優しさ」でできているような内容なのです。
「女性や若い人には遠慮が第一。老若がともに嗜むべきことである」
遺訓ニ百ヶ条
「人にあまり悪人はないものである。人に寄り添ってみよ、馬には乗ってみよ、という言い伝えがある」
「自分の知らない芸を嫌う者が多いが、それぞれの好きずきであるべきだ」
「借りた本はすぐに返すこと。ネズミに食われるなどの不注意は恥辱である」
など、他者に対して誠意のある訓示が多く、高虎の皆に優しい人柄が満載です。
こと、高虎自身がたどってきた「どう仕えるか」についてもホワイト企業っぷりが伺えます。
「長年昼夜奉公を尽くしても評価してくれない主人であれば、たとえ譜代であっても暇を取るべき。うつらうつらと暮らすことは意味がない。しかし、不遇であっても主人が情け深く理非正しい人物であれば、なりふり構わず働いて、情を以て考え直し留まるべきである」
遺訓ニ百ヶ条
と高虎なりの忠義感がうかがえる訓示を残しています。
理想の上司を求めて放浪していた高虎が理想の上司そのものになったのですね。
このように、藤堂高虎は主君を次々裏切る奸物ではないことがおわかりいただけたかと思います。むしろ、そんな世渡り上手で器用な人物ではなかったように思えます。
単純に人間が好きだったのでしょうね。
「出世したい!」「好きな人に尽くしたい!」「仲良くしていたい!」という子どものようなピュアさがさまざまな主君に信頼されたのではないでしょうか。
しかも190cmの大きな体。
強くて優しいなんて、最高に頼り甲斐がありますもんね。